静かに人気が高まる港町“銚子”の不思議な世界へ
千葉県銚子市|“日本一の漁港”銚子の本当の姿とは 最近、昔に家いちばで売れた物件が、その後どうなっているか気になったところを見て回っている。そのひとつが、千葉県の銚子にある。銚子といえば、漁港のイメージだが、その物件は、内陸の田園地帯にある。近くまで行くと、見渡す限りの野菜畑が広がるのどかな道にたどり着いて、思わず車から降りて、その先は歩くことにした。 銚子の農家との出会い 銚子は、春キャベツ生産で日本一の町でもある。そのキャベツ畑や隣接する牛舎の黒牛の写真など撮りながら、のんびり歩いていた。すると、麦わら帽子の農家のおじいさんに声をかけれた。 「あんた、ここで何をしている。」 確かに、観光地で何でもない、ただの田舎道だ。地元でない者が歩いているだけで、不審に思われても仕方がない。私は、怪しいものではないという雰囲気を笑みいっぱいの表情に込めて答えた。 「不動産屋です。」 私は、しまったと思った。それはあまりにも的外れな返答だった。しかし、道端で尋ねられた時によく使うセリフでもある。物件の調査などで街を歩くのは仕事として当然だ。それでも、ジーンズ姿の私の格好は、いかにも不動産屋らしくない。男の表情が曇った。 「怪しい。名刺を見せてみろ。」 私はとっさにそれを拒んだ。男は、それみろという顔をして、凄んできた。 「俺には銚子警察にも知り合いがたくさんいるんだぞ。何なら今すぐ電話してやる。」 私はすごすごとその場を退散した。車に乗り込み、スピードを上げて走った。まるで、警察に追われているような気分になった。悪夢だ。 人影まばらな駅前のシンボルロード 銚子の駅前に降り立ってみると、ロータリーの周りも閑散としていた。駅の北口から海に向かうシンボルロードは、レンガブロックできれいに舗装された広々とした歩道が両側に延びていて、ガラス屋根までかけられた立派な道路なのだが、人影がまったくない。週末の昼間だ。まるで夢の世界に舞い込んだような、不思議な錯覚だ。 いわゆる典型的なシャッター通りだ。しかしまだ廃墟化していない。建物ひとつひとつは比較的新しい。それなのに、店先にはシャッターだけが並んでいる。あたかも、ある日突然に日常が崩れ、人通りだけが消え去ってしまったかのようだ。街だけが取り残されている。その光景は、この街が急速にシャッター化したことを物語っていた。 シャッター街と対照的に繁盛するスーパーマーケット そうやって街中を彷徨っているうちに、車の列を見た。スーパーの駐車場に並んでいるのだ。広大な駐車場にカートを押す人がたくさん行き交っていた。店内に入ると、新鮮な食料品が大量に並べられ、驚くほど活気があった。先ほどのシャッター街の光景からすると別世界のようだ。 ふと、あるアニメ映画を思い出した。『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』である。今では世界的アニメーターとなった押井守監督の出世作として知られている。その映画の後半、主人公の高校生であるあたる達の住む友引町がまるごと廃墟化し、人類で唯一生き残ったあたる達のサバイバル生活となる。しかしそれなのに、なぜかコンビニの棚には商品がいつも並び続け、あたるの家にだけ電気に水道、新聞までが毎日届けられるという、ここはギャグアニメらしい笑える展開なのだが。今、私の目の前の現実の光景はどうだろうか。とても笑えるものではないように思えた。 廃墟の世界が“楽園”と言えるのか その映画では、それは夢の中の世界だったという結末だ。公開されたのは1984年という、日本がバブル景気に邁進する高揚感があった時代で、空き家問題もない頃だ。当時は、こうした終末世界や廃墟を舞台にした作品が数多く作られた時代でもあった。廃墟化した世界は、一種の現実逃避として描かれていた。あたる達は、食べるものにも困らない、映画館では映画も観れる、プール、釣り、ローラースケートと遊び三昧の“楽園”だった。 さて今、日本中に広がる空き家やシャッター街の光景が、果たして楽園と言えるのだろうか。いや、しかし、そこで日々、何不自由なく暮らしている地元の人たちからすれば、余計なお世話なのかもしれない。それを確かめる必要がある。 地元企業であり続けるヤマサ醤油の存在感 銚子駅のすぐ東側の一帯には、醤油工場の敷地が広がっている。ヤマサ醤油の本社がここにある。国内シェアはキッコーマンに次ぐ第2位。醤油のみならず、いまではバイオや医薬品なども手掛ける世界的企業だ。それでも、東京に本社を移さず、この人口5万人の小さな都市に本社を置いたままだ。江戸時代初期に創業した老舗企業でもある。地元にとっては大きな存在だ。 そこには、ヤマサ醤油を近代企業に発展させた「醤油王」とも呼ばれた10代目、濱口儀兵衛の活躍があった。東京帝大を出た儀兵衛は学者肌でもあり、醤油研究所を立ち上げて、うまみ成分の開発に取り組んだ。従来は勘と経験に頼っていた醤油造りに科学の手法を取り入れた。しかし、それでも銚子特有の海洋性気候が育む菌までは持ち出せない。それが、この地を離れられない理由のひとつとなっている。 工場の周りを歩くと、重々しいレンガ造りの建物と塀が果てしなく続いている。横浜の赤レンガ倉庫を思い出すが、ここは観光地ではない。現役の醤油工場である。工場のすぐ脇に、中央みどり公園があり、子どもたちが遊んでいた。かつてはここに鉄道の操車場があり、工場からの積み荷を運んでいた場所だ。銚子駅への引き込み線の跡は、現在は緩やかにカーブを描く道路となっている。 地の利があったがゆえに空襲の標的となる そして、旧公正會舘という石造りの古い重要文化財となっている建物が建っている。銚子では珍しい建物だ。戦争時の空襲で市街地の大部分が焼け野原になったのだが、この建物だけ奇跡的に残ったものだ。濱口儀兵衛が私財を投じて建設した学校と図書館だった。そして空襲後には臨時病院として使われ、多くの人命を救った。 少し歩いた末広町広場で、戦災復興記念碑を見た。太平洋戦争末期の3度に渡る空襲による甚大な被害の記憶と、戦後の区画整理による街の復興の歩みが刻まれていた。駅前にあった大きな通りも、この事業によって造られたものだ。 昭和初期、銚子は千葉市に次ぐ、県内第2の大都市だった。それに軍の基地もあったし、首都東京への「食糧供給基地」としての存在もあった。それが繰り返し空襲の標的となってしまった理由でもある。太平洋に突き出た地形が、本土上陸の目印ともなった。江戸時代から、海上交通の要所として栄えた地の利が、仇になってしまったとも言える。 観音堂と漁師たちの歴史 市街地の東のほうに、飯沼観音がある。平安時代からの歴史があるものだ。地元の漁師の網にかかった十一面観音像を安置したのが始まりだったという。鮮やかな朱色に塗られた建物が目を引く。これはただのデザインではない。海で命がけで漁をする漁師たちにとって、灯台代わりの目印である必要があった。それにベンガラを含んだ塗料が塩害から木材を守る役割も果たしてくれた。 また、大漁の日は漁師たちが鮮やかな朱色や極彩色の晴れ着を作って祝う文化もあった。観音堂の近くには、銚子電鉄の観音駅があり、その周辺は、ちょっとしたスナック街となっている。しかし、昼間はひっそりとしたものだ。かつての華やかな面影をかすかに感じた。 「漁師のいない」港町の正体 それもそのはずだ。銚子は、水揚げ量日本一を誇る国内屈指の漁港であるが、実は漁師が300人ほどしかいない。一体どういうことなのか。 まず、「量」で日本一というところがミソだ。「額」ではない。水揚げ高で日本一なのは、マグロやカツオなどの高級魚を中心として扱う焼津漁港だ。一方、イワシやサバなどの大衆魚を扱う銚子は、いわば量で勝負だ。大きな群れを網で引き上げる漁法だ。そうすると漁船の大型化が進み、人手も少なくて済むようになってくる。これが漁師を減らしているひとつの理由だ。 それと合わせて、「海の十字路」としての抜群のロケーションがある。そのため、北から南まで日本全国の漁船が一番近い巨大な港として銚子に魚を降ろしていくのだ。それらは「廻船」と呼ばれる地元外の漁船だ。当然、そこで働くのも地元の漁師ではない。それらは水揚げ量としてはカウントされるが、利益のほとんどが他県の漁業会社のものとなる。銚子はそうやって「よそ者」の船に港を貸して別の形で稼いでいると言ってもいい。そこはちょっと不動産屋的だ。 漁師になるよりも工場で働くほうを選ぶ 実は、銚子のもうひとつの顔がある。水産加工業だ。魚を「獲る」のではなく「さばく」ほうである。銚子市の水産加工業の製造品出荷額は約600億円で、市内の製造業の4割を占める。なお、残りのうちの4割が醤油醸造業なので、市の8割は醤油と缶詰(など)となる。当然、これらの工場が大きな雇用を生んでいるから、市民の多くがこれらに関連する仕事についていることになる。漁師ではなく、工場で働く従業員だ。このほうが収入も安定して、安全でもある。これが日本一の漁港の町の本当の姿だというのは、意外なことだ。夢から覚めたような気分だ。 なお、市内には「缶詰御三家」と言われる企業が名を連ねる。信田缶詰、田原缶詰、髙木缶詰だ。しかし、どれも聞き覚えのない社名ばかりだ。それもそのはず、これら企業はスーパーのプライベートブランド(PB)であったり、OEM(相手先ブランド名製造)だったりする。自らの社名を表に出してアピールすることは少ない。むしろ裏方に徹することで、効率よく全国へ商品を届けている。 よその力を借りればいいという合理主義 これらの様子を見ていると、銚子の人々の気風が見え隠れする。すべてを自分たちで完結する必要はない。よその力を借りるところは借りて、儲かればそれでいい。きわめてオープンで合理主義的だ。元々、醤油も漁業も、紀州(和歌山県)から出てきた人たちが築いたものだという。醤油についても、キッコーマンのような世界規模のマーケティングを行うよりも、研究開発のほうに力を入れる。はたから見ると、「アピールが下手だ」とじれったくなってしまうものだが、当の本人からすれば、それが王道なのだろう。 あらためて、銚子の街を歩いてみると、見え方が変わってくる。決して、ディストピアではない。最近、家いちばでも銚子の市街地の物件が立て続けに売れている。そうやって表からは見えないところで変化が起こっている。 ところで、そのような漁業関係者の気風と、内陸の農家とでは、多少異なるところがあるのかもしれない。銚子の大地の関東ローム層の痩せた土地を耕す苦労を積み重ねてきた歴史があるのだ。今のところ、銚子警察からの出頭要請は来ていないから、内心安堵している。
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