いつの時代も繁栄し続ける街“高崎”の力はどこから来るのか
群馬県高崎市|北関東最大の商業と文化の都市 群馬県にあまり馴染みがなかった。高速道路や新幹線で、軽井沢など長野方面、あるいは関越トンネルを抜けて新潟方面へと向かう途中の通過点のイメージだ。帰り道の関越道の渋滞の前に腹ごしらえで高崎に寄ってよくパスタを食べた。高崎は「パスタの街」として有名で、大盛りで具たくさんの名店が数多くある。 静かな公園での大きな声 あらためて高崎市に行ってみた。ちょうど桜が見頃の季節だったが、「群馬の森」という広大な公園は静かに散策などを楽しむ人影をぽつりぽつりと見かける程度だった。 そこに突然、静寂を切り裂くように罵声のような女性の声が聞こえてきた。ぎょっとして、そちらに目をやった。見てみると、ご婦人たちがにこやかに談笑して歩ていた。会話の内容もたわいないものだった。ただ単に、声が大きいだけだったのだ。「かかあ天下」と呼ばれるほど群馬の女性が元気がいいとは聞いていたが、そういうことか。 お昼のお店でも同様だった。公園を歩いた後、近くの和食屋のカウンターで「ソースかつ丼カレー」を注文した。目の前では、エプロンをしたご婦人たちが忙しそうに、そして賑やかに料理を作る光景が繰り広げられた。 「ソース、まだ切らしてない?」 「ご飯、出しといてね。」 内容は理解できるが、そこまで大きな声で言う必要があるのだろうか。いや、そんなことは本人たちも百も承知のことだろう。これがその土地の風土というものだ。かつ丼の味は忘れても、その光景が忘れられない。 陸軍の火薬工場だった歴史 さて、「群馬の森」公園を歩きながら、もうひとつ気づいたことがあった。公園内には豊かな起伏があり、歩くたびに階段を上ったり下りたりする。大きな公園なら別に珍しくもない。しかし、よく見るとその丘が妙に規則正しく並んでいる。自然の地形にしては不自然だ。すると、そこに石碑が建っていた。「我が国ダイナマイト発祥の地」と書かれてあった。 戦時中、この一帯は、陸軍の「岩鼻火薬製造所」があったのだ。丘のような地形は、その時に築かれた土塁で、試験や事故などの爆風による被害が広がらないようにするものだった。それにしてもこの巨大な土塁群の規模を考えると、それら爆薬の凄まじさを想像してしまう。 風化が進む「戦争遺構」 公園の周囲には、今でも当時の軍施設だった建物がいくつも残されていた。すでに廃墟となり、自然のまま風化が進んでいる。まるで人々の記憶から忘れ去られるのを静かに待っているかのようだった。この遺構もまた、原爆ドームのように保存し後世へ伝えるべきという考え方がある一方で、地域住民にとっては観光資源として語るには複雑な歴史でもある。高崎では、あえて積極的な保存も活用も行わず、静かに風化に委ねているように見えた。少なくともこの土地の人々は、そういう選択をしたのだろう。ふと、先ほど出会ったご婦人たちの背中が脳裏に浮かんだ。 古墳時代では“関東の一大拠点”だった 公園内には「群馬県立歴史博物館」もある。立派な建物だ。私は、その土地を巡る際、このような地域の歴史博物館にはできるだけ立ち寄るようにしている。歴史を知るのに手っ取り早いということもあるが、その地域が自らの歴史をどれくらい大切にしているかが見えてくるからだ。小さな町でも驚くほど展示が充実していることがある一方、それなりの人口規模がありながら博物館すら見当たらない地域もある。 まず、「県立」の博物館なのに、県庁所在地の前橋でなく、ここ高崎にあるんだな、と思った。そこにどういう駆け引きがあったかは私の知るところではない。しかし、展示を見ると納得する。「綿貫観音山古墳」の存在だ。 数多くの歴史博物館を見ている私からすれば、古墳や埴輪などはもう見飽きていた。どこにでもある展示物だ。だが、解説をよく読むとそうではなかった。平安時代よりはるか昔、古墳時代の末期には、この地の豪族が関東最大級の勢力を誇っていた。大和の中央政権とパイプを持ちながら、大陸との外交も担っていた。この古墳の主は、渡来人の技術者集団を呼び寄せ、浅間山や榛名山の麓の広大な土地で馬を育てた。これが後の「坂東武者」となり鎌倉幕府の勃興へとつながった。そのルーツがここ高崎にあったことを物語る遺跡なのだ。 なぜ、古代の豪族はこの地を選んだのか。理由は分かりやすい。ここには広大で肥沃な関東平野が広がっている。当時、南側の低地の多くは湿地帯だったが、高崎周辺は安定した台地で、利根川水系の水運も利用できた。さらに信濃や越後へと通じる交通の要衝でもある。関東の一大拠点が築かれたのも当然だった。 江戸時代の「倉賀野」河岸の今のようす この地の利点は、今も昔も変わらない。江戸時代は、中山道という信濃に抜けるルートが整備され、その河川交通との接点として「倉賀野」が栄えた。さて、その痕跡を見てみようと、倉賀野の河岸跡に行ってみたが、小さな銘板があるだけだった。私は、川越のような町並みを期待していたが肩透かしだった。周辺は、割と新しい、しかし閑静な住宅街となっていた。それでも、旧街道沿いには、いくつか往時を偲ばせる建物が残っていた。ただし、「あまり力が入っていない」ことが伝わって来るのだった。大きな都市なのだから、こういう町並みを整備することにもう少し予算を割くこともできそうなものだ。跡地のことを解説する看板の文字は、塗装がはがれて読みづらくなったままだった。それもこの土地の気風なのかと、考えるしかなかった。 蔵カフェで聴くジャズの音色 そこに、一軒の蔵を改装したカフェを見つけた。よくある古民家カフェだろうと思った。レトロな空間で静かにコーヒーを飲む。それも悪くない。そう思いながら扉を開けた瞬間、私は思わず息を飲んだ。 鳴り響くジャズのサウンド。その音の主は、突き当りの壁一面を占める巨大なスピーカー。店内は薄暗く、全容がすぐにはつかめない。ステンドグラスから差し込む明かりを頼りに目を凝らす。両側には、謎めいた書籍の数々とレコードが本棚にずっしりと並ぶ。どこの国とも分からない美術品や骨董品が混沌と置かれ、そして中央には、ガラスを溶かして無理やり固めたような巨大なテーブルが鎮座していた(後でこれが棟方志功の作品だと知る)。なお、写真は撮れないことになっている。 私はブレンドコーヒーを注文し、時間を忘れて、音の世界に浸った。普段から、イヤホンやカーステレオで音楽には触れている。たまにコンサートにも行く。しかし、こんなに心の底から音楽を聴いたのは何十年ぶりだろうか。いつの間にか、涙が出ていた。 終戦直後に誕生した交響楽団 「高崎と音楽」が自然とつながった。そういえば、群馬交響楽団(群響)というのがあったのを思い出した。私は、大学のサークルでオーケストラに熱中していた頃もあった。そこの弦楽器のトレーナーの人が群響の団員で、横浜の大学までわざわざ指導に来ていたのだ。今思えば、不思議なことだ。あらためて調べると、群響は地方都市のプロオーケストラの草分け的存在。しかも、創設は1945年11月と、終戦後3カ月という時期だ。まだ東京は焼け野原。食べるものもなく生きるのに必死だった時代だ。しかしだからこそ、武力ではなく文化で国を築くべきと、地元の若者たちが立ち上がった。 高崎白衣観音と田中角栄 群馬交響楽団の創立には、高崎の実業家、井上房一郎の存在があった。私財を投げうって全面的に支援をしたのだ。房一郎は、建設会社「井上工業」の二代目社長。その井上工業は、田中角栄元総理大臣が若い頃に修行を積んだ会社として有名だ。そして、井上工業の初代社長の井上保三郎が私財を投じて建立したものがある。高崎白衣大観音だ。 大観音のある観音山公園も、ちょうど桜が見頃だった。大観音は、昭和11年建立。鉄筋コンクリート造、高さ42メートルと、当時は世界最大級のものだった。まもなく築100年となる。軍艦島とそんなに変わらない古さだ。タワークレーンもない時代に、よくこんな高層建造物を作れたものだ。なお、この工事にも裏方として田中角栄が関わっている。「土建屋総理」とも呼ばれた角栄は、ここでモノづくりを学び、後に『日本列島改造論』を提唱する。今の日本の交通インフラはこれが土台になっている。そう考えると、この観音さまに別のありがたさを感じる。 今は静かな観音山公園 白衣大観音の周辺は、ちょっとした観光地として、参道に茶屋や土産物屋が並んでいて風情もある。庭園を臨むまるで料亭のような造りのカフェがあったが、並んでいて全然入れなかった。一方で、閉店したまま廃墟化しつつある店舗もあった。駐車場の脇の「観音山観光センター」は展望台のような円形のガラス張りの建物だが、閉鎖されていて立入禁止となっていた。ここにも、時代の移り変わりにより忍び寄る荒廃の姿を見た。高崎も例外ではない。今は、観音山公園として大きな芝生広場として子どもたちが走り回っているが、かつてはここにカッパピアという遊園地があったのだ。閉園後しばらく廃墟化していたものを高崎市が買い取って公園として整備したものだ。 高崎駅前は“百万都市”クラスの賑わい 一方で、JR高崎駅に降り立つと、高崎の繁栄ぶりがよく分かる。まず、東西の両方に大きなペデストリアンデッキ(歩行者橋)が広がっているのが目につく。仙台駅に似ていると思ったが、高崎のほうがスケールが少し大きいかもしれない。百万都市と引けを取らないほどの駅前の賑わいがある。デッキの広場ではちょうど、大道芸のパフォーマンスの最中だった。観客に若者も多い。そしてその広場からそのまま商業ビルにつながっている。「高崎オーパ」という名称だが、イオングループだ。品揃えは、町田や立川と同じくらいと言えば分かりやすいか。要するに、東京の郊外に住むのと変わらない利便性があると言える。 やはりここでも「シャッター通り」 ただし、少し駅から離れると、仙台と同等とは言い難い光景を目にする。駅のすぐ西側のレンガ通りのある一画は、飲み屋街としての華やかさがある。しかしそこからスズラン百貨店のある「中央銀座通り」まで足を伸ばすと、「シャッター通り」の雰囲気を感じるようになる。 それでも、高崎の独特なところは、そういう寂れたアーケード街に、ガールズバーのようなお店があちこちに見られる点だ。普通、こういう店は、アーケードから少し入った路地にあり、あまりメインの通りでは見かけないものだ。昔ながらの八百屋や呉服店にはさまれてガールズバーが並んでいたりする。昔からの地元民からするとあまりよろしくないような気もしつつ、シャッターが下りたままよりはマシだという考えもあるかもしれない。まあ、これも高崎気質だと割り切ればよいのだろうか。ここでも、群馬の元気な女性たちの姿が頭をよぎった。もっとも、実際に店に入ったわけではないので真相は分からない。 駅前を迂回しない珍しい構造の「バイパス」 帰り路、高崎駅から関越道のインターまで車を走らせた。大きなバイパスの1本道だ。不思議なものだ。通常、「バイパス」とは、駅前の中心市街地を避けるように迂回して通すものだが、このバイパス(国道354号線)は、高崎駅東口の正面に真っすぐぶつかるような造りをしている。だから、駅前の目抜き通りを走っているうちに、気づいたら郊外のロードサイド店が並ぶ通りになっている。 この高崎駅東口の都市開発は、1980年代にさかのぼる。上越新幹線開業を機に土地区画整理を一気に進めた。群馬県を高崎、前橋から太田、舘林までを東西につなげるひとつの都市空間の形成を目指し、高崎駅東口がその起点となるように構想した。高崎市の歴代市長が、他都市と比べて任期が長かったことも功を奏した。そして、この構想が3代にわたる市長に受け継がれ、そのリーダーシップでブレずに進めることができたのも要因のひとつだったようだ。 「自分たちでやるしかない」という気風 私の仮説だが、古墳時代の豪族のように、この地そのものを長く率いる絶対的なリーダーが現れなかったこともあるのではないだろうか。高崎が、地の利が優れていることはすでに述べた通りだが、それゆえに、戦国時代は、武田や上杉などの名だたる大名たちがこの要衝を手中に入れようと奪い合いの歴史が続いた。江戸時代は、家康もこの要衝を死守すべく、あえて有力大名を置かず、実質的に幕府配下に置いた。そして、明治時代になると、県庁は前橋に持っていかれてしまった。 そこから「自分たちでやるしかない」という気風が生まれた。あまり古い過去を振り回すことも「野暮だ」とさえする。過去の感情に浸るよりも「これからどうするか」に目を向ける。そう考えると、今日見て回ったことが1本の線でつながるような気がする。このバイタリティは、これからどこに向かうのだろうか。高崎から目が離せないと思った。
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