「東京の入り口」の宿命を背負ってきた“上野原”で探す未来像
山梨県上野原市|甲州街道から中央高速へと受け継がれた思い 中央自動車道は、東名高速に次ぐ日本の大動脈だ。しかし、高度経済成長期の初め、東京と大阪を結ぶ高速道路として最初に構想されたのは、実は中央自動車道のほうだった。当時は、海沿いを走る東海道ルートは災害や国防の面で弱点が多いと考えられていた。また、内陸の過疎地を結ぶネットワークを築くことが、日本全体の発展につながるという構想もあった。ところが、工事が始まると山岳地帯の難工事は予想以上に時間を要した。一方、日本経済は想像を超える勢いで成長し、高速道路の整備は待ったなしとなる。その結果、東名高速道路が計画を前倒しして先に全線開通し、中央自動車道の完成は約20年後となった。 山岳地帯の難工事で完成が遅れた中央自動車道 山岳地帯を走る中央自動車道は、今でもカーブやアップダウンが多く、それゆえ渋滞も起こりやすい。なかでも東京都と神奈川県の境にある「小仏トンネル」は、日本有数の渋滞スポットとして知られている。東京から下り方面へ向かい、小仏トンネルを抜けた先にあるのが「談合坂サービスエリア」だ。渋滞を抜け、ここでひと息つくのが定番になっている人も多いだろう。 「談合坂サービスエリア」のある町 だが、私は以前から、この「談合坂」という名前が気になっていた。「談合」という言葉には、どうしても現代では悪い印象がつきまとう。もちろん、この地名とは関係ない。由来には、武田氏と北条氏がこの地で話し合いをしたという説や、「団子坂」が転じたという説など、いくつかの説が残されている。その談合坂サービスエリアがある町、山梨県上野原市へ行ってみることにした。 中央高速と並走する「旧甲州街道」と宿場町 中央自動車道が上野原付近を通るルートは、かつての甲州街道とほぼ重なっている。地図を見ると、今も「旧甲州街道」が道路として残っているのが分かる。沿道には宿場町や一里塚の跡などが点在し、往時をしのばせる史跡となっている。実際に行ってみると、旧甲州街道は中央高速とは対照的に、山あいを縫うように何度も曲がりくねっていた。その道筋からは、この地がいかに複雑な地形であったかがよく伝わってくる。 宿場町は、上野原宿のほかにも3つある。最初に訪れた鶴川宿は、その名の通り鶴川沿いに開かれた宿場町だ。当時はまだ橋がなく、旅人は人に肩車をしてもらうなどして川を渡っていたという。ひとたび増水すれば渡ることはできず、多くの旅人が足止めとなった。その滞留地として栄えたのが、この鶴川宿だった。今はひっそりと静まり返り、本陣跡の建物などが往時の面影を残す。山あいの集落としては道幅が広いのも、街道だった名残だ。 鶴川宿から旧甲州街道をさらに山梨方面へ進むと、中央自動車道を跨ぐ陸橋に出た。午後の早い時間にもかかわらず、東京方面へ向かう上り車線はすでに渋滞している。森の中を静かに通る旧街道と、そのすぐ脇を鉄の塊が連なって流れる中央高速。陸橋の上から見下ろしていると、江戸時代と現代が一枚の風景の中で交差しているようだった。さらに2つ目の宿場町、野田尻宿へ向かう途中、他県ナンバーの車と何台もすれ違った。旧甲州街道は、中央高速の渋滞を避けるための抜け道として使われてもいるようだ。地元で暮らす人たちにとっては、少し複雑な存在なのかもしれない。 高速道路を見守り続ける「神聖な木」 狭く曲がりくねった山道を抜けると、野田尻宿の手前で視界が一気に開けた。目の前に現れたのは、談合坂サービスエリアだった。広大な駐車場に、次々と車が吸い込まれていく。その光景を見て、少し違和感を覚えた。かつて、この一帯には見渡す限りの桑畑が広がり、美しい里山の風景が続いていたという。その名残が、「野田尻のヒヨクヒバ」だ。市の天然記念物に指定されている一本の大木である。明治時代、野田尻宿のほとんどを焼き尽くした大火の中、この木だけが奇跡的に焼け残った。以来、地元の人々は「神聖な木」として大切に守り続けてきた。その後、談合坂サービスエリアは幾度となく拡張された。しかし、この木は文化財として守られ、高速道路を行き交う車の流れを静かに見守り続けている。談合坂サービスエリアは何度も利用してきた。それなのに、そのすぐ脇に、こんな歴史を見つめ続けてきた一本の木があることを、私はまったく知らなかった。 巨大サービスエリアの背後に静かに佇む宿場町 野田尻宿、そして3つ目の犬目宿も歩いてみた。いずれも人通りはほとんどなく、とても静かだった。商店や飲食店が並ぶわけでもなく、そこには地元の人たちの日常があるだけだった。全国には、長野県の妻籠宿のように、重要伝統的建造物群保存地区に選ばれ、多くの観光客でにぎわう宿場町も少なくない。それに比べると、今日歩いた3つの宿場町は、決して華やかではない。それでも、私は今の佇ままを大切に残してほしいと思った。宿場町として栄えた歴史を、静かに語り続ける証人だからだ。 そのためには、もう少し人々の関心が寄せられてもいいのかもしれない。観光行政の課題なのか、それとも時代の流れなのかは分からない。ただ、不思議だったのは、その静かな街並みから数百メートルも離れていない場所で、何万台もの車が行き交っていることだった。フェンス一枚を隔てた向こう側には、談合坂サービスエリアがある。人も車も絶え間なく集まる「作られた世界」と、人影もまばらな宿場町。その落差こそが、私がこの町で感じた違和感の正体だった。もちろん、これは上野原だけの話ではない。全国のサービスエリア周辺でも、似たような状況はあるのだろう。しかし最近では、サービスエリアにスマートインターチェンジを整備したり、地元の人も飲食店や商業施設を利用しやすくしたりと、新しい取り組みも広がっている。フェンスが隔ててきた二つの世界が、これから少しずつつながっていくのかもしれない。 「中山道」ルートから甲州街道へ なお、中央自動車道は甲州街道のルートをほぼ踏襲しているが、その甲州街道も、もともとは江戸と京を結ぶ主要街道ではなかった。当時の主要ルートは東海道と中山道である。中山道は現在の中央自動車道に近い内陸ルートだが、山梨県は通らず、信州から軽井沢、高崎を経て江戸へ向かっていた。これを変えたのが江戸幕府だった。甲州街道は、万が一江戸城が攻められた際、将軍が安全に甲府城へ退避するための軍事道路として整備されたのである。そのため、敵が一直線に攻め込めないよう、宿場町の中で道をあえて直角に折り曲げる「鍵の手(かぎのて)」と呼ばれる構造が随所に設けられた。鶴川宿や野田尻宿を歩くと、その名残を今でも見ることができる。 そして戦後、日本の新たな大動脈となる中央自動車道の建設計画が持ち上がった。当初は中山道ルートが有力だったが、各地で激しい誘致運動が繰り広げられ、最終的に甲州街道ルートが選ばれた。この決定は、その後の山梨県の発展を大きく変えることになる。富士五湖や清里は東京から気軽に訪れられる観光地、別荘地として人気を集め、電子部品や医療機器などの製造業も数多く進出した。もし中央自動車道が中山道ルートのままだったら、山梨県の姿は今とは大きく違っていたかもしれない。その土台となったのは、四百年以上前に徳川家康が整備した甲州街道だった。そして、その旧街道は今も、丘の影から日本の大動脈を静かに見下ろしている。 公共の自然公園が民間運営の「ミューの森」へ さて、かつて街道筋として賑わった上野原は、今では高速道路や渋滞の抜け道として通り過ぎられるだけの街になってしまったのだろうか。そんなことを考えながら、上野原の山奥へ車を走らせていると、「ミューの森」と書かれた案内標識が目に入った。可愛らしい名前だが、正式な道路標識である。公的な施設なのだろうか。その下には「カフェ入口」と書かれていた。ちょうどアイスコーヒーでも飲みたいと思っていたところだ。思わずハンドルを切った。 県道から鶴川の渓谷へ下りると、木々に囲まれた川沿いに大きな駐車場が現れた。無機質なアスファルトだけが広がる駐車場ではない。どこか特別な場所へ来たような期待感がある。「宿泊者専用」と書かれた駐車スペースには、欧州車がずらりと並び、「世田谷」や「多摩」など東京ナンバーが目立っていた。周囲は人口の少ない山村だというのに、ここだけは別の空気が流れている。まるで高級リゾートに足を踏み入れたようだった。 駐車場から少し歩くと、古いレンガを積み上げたようなデザインのゲートが現れた。ここから先は、別の世界が始まる。そんな予感を抱かせる佇まいである。中へ入ると、木々の間に自然へ溶け込むように建物が配置されていた。イメージ的には中世ヨーロッパなのか、北欧なのか、ひと言では表現しにくい。もっと分かりやすく言えば、「ジブリ風」だ。 ミューの森は、イオングループが運営する自然体験施設だ。もともとは、山梨県が1998年に開設した「県立ゆずりはら青少年自然の里」だった。しかし、開設からわずか20年あまりで廃止が決まる。その後、上野原市が施設を引き継ぎ、指定管理者を公募したところ、手を挙げたのがイオングループだった。イオンは、それまで子ども向けの屋内アミューズメント施設では豊富な実績があった。一方、ちょうどコロナ禍をきっかけに、屋外型施設への展開を模索していた時期でもあり、両者の思惑が一致した。いわゆる官民連携によって誕生した施設である。 だからだろうか。ここには民間らしい洗練されたデザインと、公的施設らしい地域へのまなざしの両方が感じられた。建物や広い敷地はできるだけ生かしながらリノベーションされ、地元の子どもたちが自然の中で活動してきた「さとっ子クラブ」も、名前を変えながら受け継がれている。宿泊料金を見てみると、想像していたよりずっとリーズナブルだった。これだけの環境なら、予約が取りにくいのも納得である。 カブトムシを探す子どもの姿 たくさんの遊び道具を詰め込んだカバンを背負い、駐車場から歩いてくる親子の姿があった。このおとぎの世界に、一番テンションが上がっているのは、お父さんのように見えた。夏休み真っ盛りの週末だ。子どもたちを喜ばせようと、予約を取るのにも苦労したに違いない。家族写真を撮るのにも余念がない。すると、下の男の子が何かを見つけたようだった。 「あ、かぶとむし。」 その声を聞くと、お父さんは嬉しそうに息子のところへ駆け寄った。 「なんだ、これはおもちゃだよ。」 それはよくできていたが、木で作られたカブトムシだった。少し落胆した様子の男の子を見て、大人たちは別の興味を探そうと、そのまま先へ歩いていった。周囲は大自然の森だ。おもちゃがなくても、本物のカブトムシはきっとたくさんいる。ただ、昼間はほとんど活動しない。探すなら、夜中に起きてライトを持って森へ入ることになるだろう。そんな夏休みの思い出が、この場所で生まれてくれたらいいなと思う。 「長寿の村」として全国に知られた”棡原” このミューの森の行政上の正式名称は、「ゆずりはら自然の里」という。「ゆずりはら」とは、この地域に古くから伝わる「棡原」という地名のことだ。近くには「ふるさと長寿館」がある。地元の公民館のような質素な建物で、うっかり通り過ぎてしまいそうになる。しかし、入口には大きな石碑が立ち、「天皇皇后両陛下行幸啓記念碑」と刻まれていた。棡原は、かつて「長寿の村」として全国に知られた場所だった。天皇皇后両陛下が訪問されるほど、その名は広く知られていたのである。 なぜ、この上野原の山奥が長寿の村として知られるようになったのだろうか。昭和40年代、医師や学者らが全国990の町村を対象に長年にわたる実地調査を行い、棡原は「日本を代表する最も理想的な長寿村」と高く評価された。理由の一つは、食生活だった。この地域は急斜面ばかりで、水田を作ることが難しい。そのため、米ではなく、アワやキビ、麦などの雑穀やサツマイモが主食となった。それに、こんにゃくや山菜、みそなどが加わる。結果として、食物繊維やミネラルを豊富に含む、現代でいう理想的な健康食になっていた。もう一つは、暮らしそのものだった。毎日、急な坂道を上り下りしながら生活する。その何気ない日常が、自然と足腰を鍛え、長寿につながったとも言われている。 山里ならではの食生活が長寿を育んだ しかし、その棡原も、今では「長寿の村」ではなくなってしまった。道路網の発達によって物流が飛躍的に進み、食生活は大きく変化した。若い頃から高脂肪、高カロリーの現代食に親しんだ大正・昭和生まれの世代では、脳卒中や心臓病などが急増したという。その結果、親より先に子が亡くなるケースも目立つようになり、この現象は「逆さ仏(さかさぼとけ)」と呼ばれ、全国的にも大きな議論となった。 長寿館の食堂では、当時の家庭料理を再現した「おふくろ定食」が名物になっている。これを食べれば、私も長生きできるのだろうか。メニューの写真をしばらく眺めてみた。しかし、現代食に慣れた私には少し物足りなく感じてしまった。結局、注文したのはカツカレーだった。これでは、長生きできそうにない。 「八重山」で感じる本物の自然 食でだめなら、歩くのがよい。その長寿を育んだという上野原の山を、自分の足で歩いてみるべきだろう。棡原地区より少し下流、上野原の中心部に近い場所に「八重山」がある。駐車場へ行くと、「八重山五感の森・ハイキングコース」と書かれた案内板が立ち、トイレや「飲み水用」と書かれた蛇口も整備されていた。持参した水筒に水を入れ、山へ入る。標高もそれほど高くない。すぐに頂上へ着くだろうと軽く考えていた。しかし、その時、何気なく水筒を満たしたことが、後に命を救われるような思いをすることにつながるとは、この時は思いもしなかった。 谷底の渓流沿いを、なだらかな坂道が続いていた。天高く伸びる杉林に囲まれ、真夏だというのに涼しい。マイナスイオンを浴びながら、のんびりと山道を歩いていく。すると、猟犬を連れた二人組とすれ違った。手には猟銃を持っている。本物だった。熊が出るのだろうか。用心深い私は、鈴と熊よけスプレーまで持参してきていた。あらためて装備を確かめ、周囲の物音に耳を澄ませる。さっきまでのハイキング気分は、少しだけ消えた。 少し歩いていくと、「ここは、上野原小学校の学校林です」という看板があった。どういうことなのだろうか。少なくとも、小学生が登るような山ということだ。ここで私は、また気を緩めてしまった。何も考えず、頂上を目指すコースを選んだ。これがたいそうしんどかった。途中から尾根伝いの道となり、照り返しがきつい。足元のすぐ脇は深い谷だ。人の気配もまったくない。暑さで少しめまいがしてきた。一歩間違えれば遭難しかねない。そう思うと、自然と気が引き締まる。水筒の水をごくりと飲んだ。冷えてもいない真水が、驚くほどおいしかった。今朝はまだ誰も歩いていないのだろうか。ハイキングコースは蜘蛛の巣だらけだった。汗ばんだ額に蜘蛛の糸がまとわりつく。さらに、カナブンだろうか、何匹もの虫が体当たりしてくる。 ーー本物の自然とは、こんなにも厳しいものなのか。 山を寄付したひとりの女性の物語 やっとの思いでたどり着いた頂上だったが、期待したほどの眺望は得られなかった。あずま屋で少し休憩し、さらに少し下ったところにある展望台へ向かう。その手前に、一つの立派な石碑が立っていた。 「水越八重さんの心が息づく八重山」 と刻まれている。この山は、水越八重さんという女性が寄付した山だった。約30ヘクタール。東京ドーム約7個分にもなる広大な山林である。時代は大正から昭和の初め。世界恐慌が始まった頃だった。その世界的な経済不況は、都市だけでなく、地方や農村にも深刻な影響を及ぼしていた。そんな激動の時代に、水越八重さんは自らの財産を投げ打ち、「おせわになったふるさとや、子どもたちのために役立ててほしい。」との願いを込めて、この山を寄付した。その思いを後世へ伝えるため、この山は「八重山」と名付けられたという。 いろいろと不思議に思うところがある。八重さんの生没年を調べると、43歳という若さで亡くなっている。寄付をしたのは、その直前のことだった。なぜ、その若い女性が、これほど広大な山林を所有していたのだろうか。今でこそ、山林は所有者不明になってしまうほど、持っているだけで負担になる時代になってしまった。しかし当時は、木材を生み出す山林は地方経済を支える重要な財産だったはずだ。調べると、八重さんの一家は、ここからさらに上流の西原地区で、古くから広大な山林を持つ大地主だったようだ。それからすると、この八重山は地元からかなり離れている。なぜ、この山を所有していたのか。公開されている資料からは分からなかった。 ここからは私の想像でしかない。八重さんが三十代の若さでこの山林を相続したとすれば、その背景には、何らかの事情があったのかもしれない。さらに、43歳で亡くなる直前、自らの財産を寄付するという決断にも、並々ならぬ思いがあったのではないだろうか。もちろん、本当のことは分からない。しかし、一つだけ確かなことがある。八重さんは、自分の財産として山を残すのではなく、「ふるさとや、子どもたちのため」に残す道を選んだということだ。世界恐慌という先の見えない時代だったからこそ、子どもたちの未来に希望を託したのだろうか。山林を個人の財産として持つよりも、子どもたちが学び、自然と触れ合う場として残す方が、ずっと大切だと考えたのかもしれない。そんな未来が、八重さんの目には見えていたような気がした。 相模川の源流である美しい里山の西原集落 その八重さんが生まれ育ったという西原(さいはら)地区へ向かった。ここは上野原市の最北部。鶴川の最上流にあたる。鶴川は下流で桂川と合流し、やがて相模川となって神奈川県へ流れていく。道沿いに、「相模川上流水源林整備事業実施区域」と書かれた看板が立っていた。神奈川県企業庁によるものだ。ここは山梨県である。しかし、この西原の森を健全に保つことが、下流に暮らす神奈川県民の命の水を守ることにつながっている。そのため、山林整備にかかる費用を山梨県と神奈川県が分担しながら、この森を守っているという。つまり、神奈川県民が納めた税金の一部は、この山梨の森の整備にも使われていることになる。神奈川県に暮らす人には、このことをぜひ知っておいてほしいと思った。 山深い西原ではあるが、県道を抜けると、小さな町並みが現れた。郵便局や駐在所、小中学校などが集まる、この地域の中心地だ。しかし、小学校も中学校も、すでに廃校となっていた。校舎だけが静かに残されている。その中心部に、「羽置の里 びりゅう館」という観光交流施設があった。中へ入ると、レストラン脇のラウンジでは、ちょうどワークショップの最中だった。地元の人たちだろうか。熱心に話し合っている。壁には、大きな模造紙が貼られていた。 「さいはら未来会議」 そう書かれた紙には、たくさんの意見やアイデアが書き込まれていた。廃校になった学校のすぐ近くで、「未来」という言葉が話し合われている。その光景が、とても印象に残った。 西原の集落を見渡せるという「丸山」の山頂を目指した。ところが、その入り口がなかなか見つからない。ようやく見つけたのは、手書きの小さな看板だった。しかし、その矢印の先には道がない。それでも目を凝らすと、生い茂る雑草の合間に、かすかな踏み跡を見つけた。これしかない。そう思って茂みをかき分けながら登っていくと、やがて視界が一気に開けた。美しい里山の風景が広がっていた。養蚕の時代から残るのだろう古民家もあれば、新しい建物に建て替えられた家もある。しかし、集落全体のたたずまいは、昔とそれほど変わっていないように思えた。ここが、八重さんの故郷なのか。観光地として十分に整備された場所ではない。それでも、この日一番心を動かされたのは、この風景だった。 次々と廃校となった小学校 山を下りて、あらためて廃校となった学校を見に行った。立派な校舎だった。しかし、この小さな集落には、少し大きすぎるようにも見えた。校庭の片隅には、「西原小学校閉校記念碑」が建っている。閉校記念、か。決して忘れ去られるように学校がなくなったわけではないのだろう。西原小学校は、明治時代に創立した142年の歴史を持つ学校だった。しかし、町並みは昔の姿を残していても、子どもの数だけはどうにもならない。少子化という大きな流れは、この山村にも及んでいた。 上野原市では、これまで12校の小学校が廃校となり、現在は4校を残すのみとなっている。西原小学校も、隣の棡原小学校も、現在は上野原小学校へ統合され、子どもたちは毎日スクールバスで山道を30分ほどかけて通学している。廃校の背景には、もちろん財政的な事情もある。一校を維持するよりも、スクールバスを運行する方が負担は小さい。その代わり、子どもたちは、より多くの仲間と学び、切磋琢磨できる環境を手に入れた。だから、この変化を単純に良いとも悪いとも言えない。 現在、この校舎は映画やドラマ、CMなどのロケ地として活用されているという。利用料は維持費の一部にもなり、地域を知ってもらうきっかけにもなる。一方で、解体には莫大な費用がかかる。だから今は、このまま活用し続けることが最善なのだろう。それでも、いつか大規模な修繕や建て替えが必要になる日が来る。その時、この校舎は、どんな未来を迎えるのだろうか。 少子高齢化の時代で繁栄する山の上のニュータウン「コモアしおつ」 そんな少子化の流れの中で、比較的新しくできた小学校もある。上野原西小学校だ。「コモアしおつ」と呼ばれる大規模ニュータウンの造成地内にある学校で、2011年、市内西側の旧甲州街道沿いにあった4つの小学校を統合して開校した。校舎は、もともとこの地にあった四方津(しおつ)小学校のものを引き継いでいる。四方津小学校もまた、明治時代に創立した歴史ある学校だった。しかし、ニュータウンの造成に合わせて現在の場所へ移転し、その後、地域の学校統合によって、新たに上野原西小学校として生まれ変わったのである。 首都圏から離れ、さらに山を越えた上野原にニュータウンとは。どうせバブル期の勢いで造られたもので、今ごろはゴーストタウンになっているのではないか。そんな先入観を持ちながら、「コモアしおつ」へ向かった。ところが、その予想は見事に裏切られた。緑豊かな美しい住宅街だった。街開きから35年になるという。しかし、古さをほとんど感じさせない。街路はゆるやかにカーブを描き、単調になりがちな街並みに変化を与えている。家々の庭先は、どこも庭園のように緑が手入れされていた。「建築協定」と書かれた看板も目に入った。緑化の基準やフェンス、カーポートの高さまで細かく定められているという。そして、それがきちんと守られている。空き家や雑草に覆われた家は、一軒も見当たらなかった。 総区画数は約1,400戸。人口は約3,500人で、上野原市全体のおよそ15%を占める。街並みだけを見れば、田園都市線のたまプラーザよりも高級感があると言っても大げさではない。バブル期の分譲当初は、土地だけで1区画5,000万円台だったという。現在は中古住宅でも1,000万〜2,000万円台が中心となり、価格だけを見れば4分の1程度まで下がっている。それでも、市内のほかの住宅地と比べれば依然として高い水準だ。街全体のブランド力が保たれている証拠なのだろう。売りに出されれば買い手は比較的早く見つかるという。空き家問題とは、ほとんど無縁の街だった。 珍しい斜行エレベーター「コモア・ブリッジ」 そして、コモアしおつには、この街の「名物」がある。「コモア・ブリッジ」と呼ばれる斜行エレベーターだ。一般的なエレベーターは上下に動くが、これは斜めに動く。イメージとしてはケーブルカーに近い。住宅街とJR四方津駅との高低差約90メートルを結び、山の上と下をわずか4分ほどで行き来できる。「乗り場」に入ると、まるでSF映画の世界だった。両側に一台ずつドアが並び、その上には車室の現在位置を示すインジケーターが表示されている。天井は全面ガラス張りで、そのまま山肌に沿って下界まで伸びている。ボタンを押す。すると、遠くから車室が静かに近づいてきた。使い勝手は、まるで普通のエレベーターだ。しかし、動き出すと景色が斜めに流れていく。自分でケーブルカーを呼び、乗り込んだような不思議な感覚だった。延長は約210メートル。建設費は約40億円だったという。総区画数約1,400戸で割ると、一戸あたり約280万円。新車一台分ほどの費用を、この一本のエレベーターに投資した計算になる。ニュータウンの住民以外でも利用できるが、あまり冷やかし半分で乗るものではないだろう。維持にも、それなりの費用がかかっているはずだ。 乗り込んだ斜行エレベーターでは、地元の子どもらしい男子3人組と一緒になった。私がガラス張りの車内から見える景色を写真に撮ろうとすると、さっと身を避けてくれた。私のように、きょろきょろと景色を見回す「観光客」には慣れているのだろう。 「いいんだよ。ここに住んでいるの?」 そう話しかけると、朝の通学時間帯は混雑することなどを教えてくれた。通学に使っているということは、上野原西小学校ではない。中学一年生くらいだろうか。やがて、眼下に四方津駅が見えてきた。ちょうどホームに上り電車が入ってくる。 「電車が来たぞ。」 そう声を掛けると、3人は一斉に焦り始めた。スマートフォンで時刻を確認しながら、 「乗り遅れると、30分待ちなんです。」 と教えてくれた。それでも斜行エレベーターは、何事もないかのように決められた速度でゆっくりと降り続ける。こちらまで焦ってくる。ターミナルに到着し、ドアが開くと、「失礼します。」と言い残して、3人はホームへ向かって駆け出していった。 「きっと間に合うよ。」 根拠もなく、そう声援を送った。どこへ向かうのだろう。友達と遊びに行くのだろうか。しかし、もう夕暮れ時だ。コモアしおつには食品スーパーはあるものの、それ以外の娯楽施設はあまり見当たらない。それでも、鉄道駅へ直結しているということは、子どもたちの行動範囲を大きく広げてくれる。車を運転できない世代にとって、その価値は想像以上に大きい。 公共交通インフラを自治運営で守り続ける このニュータウンを開発したのは積水ハウスだ。当時すでに斜行エレベーターを導入した実績があったそうだが、思い切った決断だったと思う。そして現在、そのエレベーターは更新時期を迎えている。当然ながら、設備を更新するには一時的に運行を止めなければならない。しかし、住民の生活を支える生命線ともいえる設備を止めることは容易ではない。幸い、コモア・ブリッジは2基あり、さらにエスカレーターも整備されている。積立金も計画的に準備されているという。仕組みとしては、マンション管理組合に近い。 地方では、鉄道やバス路線が突然廃止され、生活の足を失う事例は決して珍しくない。公共交通機関には、採算という避けられない課題がある。赤字路線を維持することは難しく、行政の補助にも限界がある。多くの地方自治体は、それ自体が厳しい財政状況に置かれているからだ。しかし、コモアしおつでは、住民による自治組織が維持管理費を積み立て、自らインフラを支えている。そのため、一方的に運行が打ち切られる心配は少ない。もちろん、その代わりに住民は負担を続けなければならない。維持管理費は、一戸あたり毎月1万円弱ほどだという。その負担を受け入れられる人が、この街を選ぶ。そして、その価値を認める人が次の住民となる。現在でも入居待ちが出るほどの人気を保っているという。この街が、このまま長く、その価値を維持していってほしいと思った。 帰り道、案の定、中央自動車道の上野原インターチェンジに入ると、長い渋滞の列だった。仕方なく、ぼんやりと空を眺めていると、一瞬、夜空にきらりと光るものが見えた。 「花火だ。」 そうだ。今日は相模湖の花火大会の日だった。退屈な渋滞が、思いがけず花火の特等席へと変わった。ふと、コモア・ブリッジで別れた中学生たちの顔が浮かんだ。そうか。彼らは、花火大会へ向かっていたのではなかったか。相模湖駅は四方津駅から三駅先だ。きっと、間に合っただろう。今ごろ、同じ花火を見上げているのかもしれない。不思議と、私も彼らと一緒に、夜空に次々と咲く大輪の花火を見上げているような気持ちになった。
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