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家いちば見聞録

世界的な観光都市“京都”は日本の中で特別な場所なのか

京都府京都市|今も昔も多くの人々が行き交う場所 朝、祇園四条のホテル近くでモーニングを取ろうと珈琲店を探したが、まだ少し時間が早かった。歩いていると、「朝ごはん」という文字が目に留まった。八坂神社の目の前にある寿司屋だった。間口の狭い入口がいかにも京都らしかった。調べると、明治45年創業の老舗だった。いや、京都ではそれくらいなら老舗とは言わないのかもしれない。席に座ると、目の前に小さな中庭があり、祠にお酒が奉られていた。注文して出てきたのは、お茶漬けだった。 京町家を改装した路地裏のバー そう、昨夜は少し深酒をしたのだ。御池通から少し路地を入ったところにあるバーで飲んでいた。狭い石畳の通路入った奥にある重い格子の引き戸を開けて入るような静かな店だ。聞くところによると築100年以上の京町家を改装したものらしい。一枚板の大きめの欅のカウンターに落ちる柔らかいライトの灯が心を静かにしてくれる。まだ、夜には早い時間でほかに客もいなかった。若いバーテンダーはまだ見習のようで、おすすめのクラフトビールについて熱心に説明してくれた。京都の地元の人ではないと感じた。 「徳島です。学生の頃から京都に来ています。」 聞くとそういう話だった。私も簡単に生い立ちを語った。九州が生まれ育ちで、今は東京で働いている。大雑把にはそんなプロフィールだ。 「今回は、長崎の佐世保で生まれ育った親戚の葬儀で京都に来ているのです。」 九州の親戚の葬儀の場所が京都だった すでに昼間に告別式まで終え、喪服から着替え、四条大橋前の洋食屋で早めの夕食を済ませていた。通夜では、瓶ビールを酌み交わしながら、亡くなった伯母を偲んだ。人徳者で知人も多かった伯母だが、実家から遠く離れた京都での葬儀だったこともあり、身内だけの家族葬となった。遠くからいとこ夫婦たちも来ていた。小さい頃は、盆正月は佐世保の実家にいとこ達が勢揃いして、賑やかに過ごしたのを思い出す。それが今、慣れない京都の地で喪服を着て参列している。不思議な気分だった。 夜の河原町は普通の大都市の風景 ほかの客が入り出したころには酔いも回り、三条通を抜けて先斗町を少し歩いた。四条河原町のアーケードの辺りも、華やかに賑わっていた。昼間の清水寺に向かう坂道などは外国人でいっぱいだが、夜の河原町は、普通の大都市の風景だ。カラオケやファーストフード店で過ごす若者の姿がある。そんな繁華街と隣り合わせに、信長が討たれた本能寺がひっそり佇んでいる。それが京都だ。酔いがいい感じに回ってくる。 お寺と朝食の“はしご”体験 そんな翌朝に、お茶漬けはちょうどいい。その足で、知恩院に向かった。浄土宗の総本山だ。山門も本堂も、圧倒的な存在感だった。あらためて故人を供養した。実は昨日から、いくつかの寺院を回り、その都度手を合わせていた。京都に来れば、自然とそうなる。 そこから西に少し下ると、白川が流れていた。ふと、川沿いの小径に「たまごサンド」と掲げる珈琲店を見つけてしまった。朝食まではしごすることになった。これも京都だ。 伝統的な町並みを住民による「町式目」で守る 白川筋をさらに下ると、空気が変わる街並みに出た。古い建物が並ぶ景色は京都では珍しくないが、ここには何か統一された風情がある。「祇園新橋・白川界隈の町式目」と書かれた札が掲げられていた。いわゆる、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)で、古い建物と町並みを残していこうという制度のものだ。もっとも、国の重伝建制度が始まったのは1970年代である。京都ではそれ以前の江戸時代から地元や店舗経営者が協力して自主的なルールを定めてきている。それがこの「式目」に現れている。ただお上に頼るのでなく、自分たちで町の品格を守っていくという強い意志を感じる。この祇園新橋地区は、重伝建制度で最初に指定された7地区の一つである。その取り組みは、現在では全国130地区へと広がっている。 文化財となっている歴史的な建物を時代に合わせて使いこなす 京都御所へ向かう途中、丸太町通り沿いにひときわ目立つ大きさのレトロの洋館が目に入った。大正時代に建てられた電話局の建物らしい。通常、こういう歴史的な建物は、博物館などで使われていることが多いが、ここの1階はスーパーマーケットで、2階にはスポーツクラブが入っている。まるでテナントビルだ。スーパーとして使うには、このような古い建物は柱や壁が大きくて使いづらい。いっそのこと「建て替えたほうが早い」となるものだ。それでもこの建物を大正時代のまま残そうとしていることに、感心する。登録有形文化財に指定されているが、取り壊しを止める法的な拘束力はないものだ。現在も所有者であるNTTが、この建物を維持し続けている。 京都御所の周りには、同志社の創立者である新島襄と妻の八重が過ごした私邸も、明治の初め頃に建てられた当時のまま残されている。さらに御所の北側にある同志社大学の敷地内には、彰栄館、啓明館、礼拝堂、クラーク記念館など、明治時代に建造された建物がいくつも現存している。しかもいずれも、現役の校舎や施設として使わて続けている。 元々、このような明治・大正期の建物は、京都だけでなく全国各地に存在していたが、多くが取り壊されてしまっている。空襲や震災で失われたものも多いが、「老朽化して」や「耐震性が」「予算がない」などの理由で解体されたものも少なくない。維持には相応の費用がかかる。京都だけが、その苦労と無縁だったはずはない。一体、京都の何が違うのだろうか。そのことが頭を離れない。 京都の厳しい“高さ規制” 付近を歩いていると、白い鉄板に囲われた広大な敷地があった。建設計画を示す標識が掲げられていた。いわゆる「お知らせ看板」だ。職業柄、これをつい見てしまうものだ。用途はホテルで、発注者は三菱地所だ。さぞ、巨大なホテルを建てるのだろうと思いきや、階数はわずか3階建てとなっていた。 京都の都市計画における規制の厳しさは類を見ないほどだ。特に、市内のほぼ全域で建物の高さの「上限」が厳密に決められている。東京などでも高さ規制はあるが、多くは斜線制限である。敷地境界から建物を後退させれば、その分だけ高く建てられる。だから広い敷地ほど、高層建築が有利になる。東京の街並みが不揃いなのはこのためだ。 京都市が、これだけ高さ規制を厳しくするのは、もちろん歴史的な景観を守るためだ。このほか、京都の広告規制が厳しいことも有名だ。一方、他の都市が高さ規制を緩めるのは、都市のキャパシティを増やすためだ。高層マンションを増やせば、人口を増やすことができ、雇用も消費も生まれて、経済は活性化する。税収も増える。 厳格な都市規制から生まれた経済価値 しかし、高さを抑える選択をした京都市の経済が停滞してしまったと言えるだろうか。むしろその反対のことが起こっている。景観の美しさが認められて、世界中から観光客が押し寄せる。東山界隈にはハイアットなどの世界的高級ブランドホテルがずらりと並ぶ。おそらく、この三菱地所の建設予定地にも、相応のラグジュアリーホテルが建つのも間違いない。建物を高層化しなくても、景観そのものが価値となり、高い付加価値を生み出している。京都では、そのような経済が成り立っている。 ただし、これによって地価が高騰するという負の側面はある。まず、新たに京都で土地を買って住もうとすることが容易でなくなる。庶民では高嶺の花となる。一方、地価が上がると、固定資産税や相続税などの負担が大きくなるため、空き家を抱え続けるよりも、貸したり活用したりする方向へと土地オーナーを後押しする面もある。 なぜ「残すことができた」のか しかし、そんなことは分かり切ったことだ。京都のように都市をブランド化していくことは容易ではない。長い歴史に裏打ちされた建物や史跡が数多くある。これも真似しようがない。ひとつ言えるのは、「残したからブランド化できた」ということだ。ブランド化するために残して来たわけではない。 ではなぜ、「残すことができたか」だ。私は、高さ規制が今後のヒントになると考えている。もし、その土地に高層ビルが建てられるとすると、その分だけ土地価格は上昇するようになっている。そういう土地では木造の低層建物では不経済となるため、鉄骨造の高層ビルが建てられる。こうなると、個人商店というわけにはいかない。建設費に何億もかかる。そして建設費の借金を返すために、賃料を上げてテナントを募集することになる。そうすると、チェーン店などが増えていく。こうやって街並みが次第に陳腐化していく。 一方、高層化できない土地であれば、昔ながらの商店の構えのまま営業を続けやすくなる。これによってまず、古い建物がそのまま使い続けられるようになる。さらに、小規模な経営者が多く残ることになる。彼らは、大企業よりは地元意識が強い。祇園新橋の重伝建地区の「町式目」はそうやって生まれてきた。建物高さを低く抑えることが、小規模な商店や地元主体の経営を残しやすくし、その結果として町式目のような自治の文化を支えてきた面もあるのではないだろうか。 京都を駆け回った幕末の志士たち 祇園に戻り、建仁寺を抜けて八坂通を清水寺の方に向かう途中、高級料亭をいくつも見かける。そのほか、陶磁器、漆器、茶道具、工芸品など高額の商品を並べる老舗も数多くなる。京都のしたたかな経済の底力を感じる。 この清水坂や三年坂周辺は、今でこそ観光地として土産物屋が並ぶ通りだが、江戸時代までは茶屋街だった。いわゆる、大人の社交場だ。坂本龍馬ら幕末の志士たちも、この界隈の茶屋をたびたび訪れ、長州や薩摩など各藩の志士たちが情報交換や密談を重ねたとされる。 その志士たちは、日本のために駆け回り、多くが命を落としていった。「霊山歴史館(幕末維新ミュージアム)」に行くと、そのことをよく知ることができる。その近くには、霊明神社がある。ここは、幕末の頃から神式で弔われたい志士たちにとって、唯一無二の聖地だった。幕府から追われる立場となった志士たちの遺体は、通常の寺院では引き受けづらかった。これが明治に入って、国のために命を落とした人々を慰霊する靖国神社へとつながっていった。靖国のルーツも京都だったのだ。 維新の舞台の中心にあった京都 私は、幕末から明治維新にかけての歴史に深く心を動かされる。大河ドラマでも度々取り上げられる時代のひとつだ。龍馬や西郷、近藤勇など、魅力的なカリスマを持った人物が数多く登場することもあるだろう。しかし私が感じるのは、立場によって歴史の見え方が全然変わってくる点だ。薩長から見れば、慶喜が宿敵のように描かれるが、徳川や会津の視点からは暴挙のように見える。ここには、正義も悪もない。立場が変われば正義も変わり、主人公が誰かによって、物語の舞台も変わってくる。 しかし、変わらないのは、京都の立ち位置だ。幕末の志士たちは、必ず京都を訪れて、活動をしている。維新は、薩摩や長州、土佐で起こったのではなく、また江戸で起こったのでもない。京都がその舞台の中心であった。その戦火で、京都の町が焼かれてしまうこともあった。そして、維新後には、東京が首都となり、天皇は江戸城に移り住み、その後、皇居となった。こうして、明治維新の様々な施策は、東京を舞台として繰り広げられることとなった。京都は、近代国家日本の礎となるべく、その役割を果たしたのである。 2つの大都市「東京と京都」 その後、太平洋戦争では、空襲から逃れることができたことで、今の京都がある。一方で、首都である東京は焼け野原となり、そこから復興をして高層ビルが立ち並ぶ世界的な大都市へと変貌を遂げた。2つの都市の役割が明確に分かれた結果だ。 普段は東京で暮らす私は、同じ日本でありながら、全く違う顔を持つ京都に憧れがある。鴨川の河原に腰を下ろして、静かな水流を眺めていると、ここでの生活が羨ましくなってくる。 ——いっそ、二拠点生活を始めてみようか。 さすがに、東京と京都の組み合わせはないだろう、と思った。二拠点生活といえば、都会と田舎を行き来するものだという思い込みがある。しかし、京都御所のことを思い出した。京都御所とは、天皇にとってもうひとつの住処のようなものではないか。実際に、京都では今でも「そのうち天皇がお帰りになる」という話を耳にすることがある。それって天皇の「二拠点生活」ではないか。令和の今、二拠点ライフが広がっているが、ずっと以前からそれを実践している方がおられたのだ。これぞ、国民の象徴ではなかろうか。

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    「朝ごはん」のお茶漬け

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    麴屋町通にある「bar K家 別館」

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    夜の四条河原町

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    三条名店街(三条通)

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    寺町通に面した本能寺

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    たまごサンドの店「やまもと喫茶」

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    祇園新橋・白川界隈は重要伝統的建造物群保存地区に指定されている

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    「町式目(決まり事)」の立て札

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    旧京都中央電話局上分局(スーパーフレスコ)

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    広大な京都御苑(京都御所)

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    同志社大学の敷地内にある「アーモスト館」

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    八坂通から法観寺(八坂の塔)を望む

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    二寧坂 (二年坂)

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    二年坂にあるPark Hyatt Kyoto

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    ねねの道

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    高台寺の竹林

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    清水寺を下から見た眺め

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    八坂神社のすぐ裏手にある円山公園

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    円山公園内にある坂本龍馬・中岡慎太郎像

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    鴨川公園

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