時代の先を見て生き抜いてきた“栃木市”から何を学ぶのか【栃木前編】
栃木県栃木市|県庁の座を奪われた街のその後の運命 家いちばの社内の関係者が家いちばの物件を買うこともある。私だって、ほしいと思う物件に出会うこともあるが、公私混同の一線は引いているつもりだ。それでも、禁止とまではしていない。それも個人の自由だ。しかし、関係者だからといって有利になることがないように、あくまでも公平に取り扱うことが原則だ。 「栃木市」が移住先に選ばれる理由とは 家いちばの物件を買った平野さんは、宅建士として契約のとりまとめ業務などをやっているが、本業ではM&Aの仕事もしている。実は、家いちばでの仕事をやる前から、家いちばで移住先を探していた。東京だけの暮らしに物足らなさを感じたのだ、そしてついに、これだという物件を見つけて、無事に手に入れることができた。 その物件が「栃木市」だった。正直、意外に思った。東京からの移住先の選択肢としては、伊豆や長野もあるし、房総もある。手頃な値段の物件も数多くある。栃木方面なら那須も人気だ。県の名前はついているが県庁所在地でもない市があることはいちおう知ってはいたが、位置もピンと来ない。しかしそれでも、平野さんは契約担当として全国を飛び回っているベテランだ。その彼が選んだというのだから、それ相応の理由があるに違いない。これは、行って調べるしかない。 巴波川を中心に広がる栃木の街並み 栃木の街並みは、市を南北に流れる巴波川(うずまがわ)を中心に広がっている。江戸時代に水運で栄えた街だ。「綱手道」と書かれた通りには、石畳に沿って柳の木が並び、階段を降りると水際を散歩できるようにもなっている。川の両側には古い建物や塀が並び、風情がある。そして、とにかく川の水がきれいに澄んでいて、鯉が悠然と泳ぎ、野鳥も舞い降りてくる。とても絵になる光景だ。 千葉県にも「小江戸」と呼ばれる古い街並みで有名な「佐原」があり、そことも似ているが、川の流れに違いを感じた。水流が速いのだ。渓流とまではいかないが、それに近いものがあり、水面がきらきらと輝いて、涼しげでもある。巴波川の主な水源の一つは、市内の上流にある白地沼の湧水だという。しかし、江戸から舟に荷物を積んで戻ってくるときには、この速い川の流れに逆らわなければならなかった。そのため、陸から麻綱で舟を曳いて進んでいたことから、「綱手道」という名前がついた。 舟運で栄えた時代の豪商の蔵やお屋敷 巴波川のほとりには、明治時代の豪商・横山家の商家建物が「横山郷土館」として公開されている。中を見てみると、その豪勢さに驚く。横山家は江戸時代、当時高値で取引されていた麻の問屋として、地域有数の豪商に成長した。明治に入ると、問屋業で得た潤沢な資金を元手に金融業にも進出。「栃木共立銀行」として営業していた部屋には、当時使われていた金庫や帳簿、鍵、印鑑などが今も残されている。母屋の裏には立派な庭園や離れの洋館まであり、当時の隆盛ぶりがうかがえる。 築かれた財力で江戸の文化も支える 周辺には、規模の差こそあれ、同じように蔵を備えた立派なお屋敷跡がいくつも見られた。横山家だけでなく、地域全体が大いに繁栄した時代があったことを物語っている。駅から伸びるメインの大通り沿いにも、古い蔵が両側にいくつも並んでいる。かつての「日光例幣使街道」で、現在は「蔵の街大通り」と呼ばれている。そこにある「とちぎ歌麿交流館」も、かつて豪商・金澤家が所有していた建物だ。中に入ると、喜多川歌麿の作品がたくさん展示されていた。話を聞くと、歌麿には栃木にもパトロンがいたらしい。そうか、天才絵師と言えども、資金を出して絵を買ってくれる人がいなければ成り立たない。そのパトロンの一人が、栃木の豪商・善野喜兵衛だった。歌麿の最高傑作とも言われる「雪月花」の三部作も、善野家との関わりの中で生まれたと伝えられている。あらためて、舟運で栄えた栃木の財力を思い知った。それに、そのお金の使い道も、粋なものだった。 無農薬野菜も売る水辺のカフェ そんな栃木の街を歩いているうちに、私は巴波川の水辺の風景に、故郷である九州の柳川を思い出し、嬉しくなった。川沿いに古民家カフェを見つけたので、入ってみた。素朴なおにぎりのランチプレートをいただき、有機栽培のコーヒーを飲みながら、窓の向こうを静かに流れる川を眺めていた。 お店のカウンターの奥からは、店主らしき女性の声が聞こえてきた。やや無口なウェイターに、一方的に話しかけている。内容は、たわいもない世間話だ。食事を終えた私は、レジの横の壁に書かれた落書きに目を見張った。養老孟司先生のサインだった。昆虫らしき絵も描かれていたが、それがあまりに下手だった。 「これは、本当に養老先生のサインですか?」 すると、店主の女性がカウンターから出てきて、楽しそうに話してくれた。 「先生は、昆虫がお好きなんですよ。」 養老先生は、地元のNPOで里山保存の活動に参加されていて、たびたび訪れるらしい。店内を見渡すと、無農薬で栽培された野菜なども売られていた。どうやら栃木は、古い街並みが残っているだけではなさそうだと感じた。 歴史保存地区の「嘉右衛門町」に学ぶ 「嘉右衛門町」の重要伝統的建造物群保存地区にも足を伸ばした。いわゆる「重伝建」のひとつで、文化財保護法に基づいて国が選定するもので、全国で130地区にのぼる(2026年10月現在)。栃木市内には古い建物が数多く残されているが、街並み全体が保存地区として選定されているのは、この嘉右衛門町の一帯だけで、92棟の建物が保存対象となっている。先ほどの「蔵の街大通り」は、残念ながら保存地区には含まれていない。すでに近代化が進み、歴史的な街並みが部分的に失われていたためだという。それだけに、嘉右衛門町の貴重さが際立つ。 その一角にある交流館に入った。嘉右衛門町の歴史や、今後の保存計画などを学ぶことができる場所だ。私は、どうしても知りたいことがあった。ふと、カウンターの中にいた学芸員の女性と目が合い、聞いてみた。 「なぜ、栃木市にはこれだけたくさんの古い建物が残っているのですか。」 私のテーマでもある。その若い女性は、一瞬、言葉を詰まらせた。そして、遠い昔のことを思い起こすかのように、ゆっくりと語り出した。 「これは、私の個人的な考えです。まず、財力のある豪商たちが、お金をかけて丈夫な家を建てたというのがあります。そしてその後、県庁が宇都宮に移ったことで、開発を免れたところもあります。当時は複雑な思いもあったかもしれませんが、結果的にはそのおかげという面もあったのかと。それとも関連しますが、栃木は空襲が少なかったのです。宇都宮の次はいよいよ栃木に爆撃が来ると言われていたところで、終戦となったのです。」 とても納得できる説明だったので、地元の人なのか聞いてみた。 「栃木生まれです。けれど、小さい頃は、嘉右衛門町のことなど全然知りませんでした。私が興味を持っていなかっただけなのか、それくらい忘れ去られた存在だったのか。でも、歳を取るにつれて、ここの大事さが分かりました。」 そして最近、嘉右衛門町では、若い人たちによるお店が次々にオープンして、盛り上がっていることを嬉しそうに話してくれた。私も、博物館の展示のように見るだけの建物よりも、何かに現役として活用されていて、中でゆっくり過ごしたりできるほうが好きだ。そのひとつのカフェに入って、ドーナツを買って食べ歩きをした。あまりの美味しさに、お土産まで買うことになった。 宇都宮に県庁が移された複雑な事情 江戸時代、舟運でたいそう栄えたこの地には、明治維新後の廃藩置県によって栃木県の県庁が置かれた。1873年には宇都宮県と合併したが、その後も栃木町が県庁所在地のままだった。しかし、そのおよそ10年後の1884年、県庁は宇都宮に移されてしまった。これには、さまざまな事情が複雑に絡み合っていたという。宇都宮が県の中央に位置し、交通の便がよかったという地理的な優位性もあった。一方、当時の栃木町を中心とした県南部では、政府に対抗する自由民権運動が盛んだったことも、県庁移転に関係していたとされる。政府には、反体制的な動きが活発な栃木町から、行政の中枢を引き離そうという思惑もあったのかもしれない。もしそうだったとすれば、栃木の新進気鋭の気風が、かえって仇となってしまったと言えないだろうか。 鉄道のメインルートから外れてしまった事情 その県庁移転と並行して進んでいたのが、鉄道建設だ。当時、東京と東北地方を結ぶ鉄道の整備が急がれていた。もちろん、当初は栃木町を通す案もあった。しかし、建設費や工期などを比較検討した結果、最終的には現在の小山市を通るルートに決定された。栃木町の南方には、巴波川などが流れ込む渡良瀬の広大な低湿地があり、河川の多さも鉄道建設には不利だったという。当時はまだ舟運が盛んだった時代だ。栃木町では、鉄道の誘致にそれほど積極的ではなかったという話もある。川の路があれば、鉄路は不要と考えられたのだろうか。こうして、県庁移転の翌年にあたる1885年、東北本線の大宮〜宇都宮間が開通した。栃木町は、その幹線ルートからも外れてしまった。舟運による絶大なる繁栄が、今度は仇となってしまったのかもしれない。 東武の「鉄道王」による日光線が開通 しかし、それからおよそ40年が経った昭和初期、当時の東武鉄道社長・根津嘉一郎は、国鉄に対抗して、東京と日光をより短い距離で結ぶ鉄道路線の建設を進めた。その間、かつて鉄道建設の障害となった広大な低湿地帯では、渡良瀬遊水地の整備が進み、橋梁建設などの土木技術も向上していた。「鉄道王」と呼ばれた嘉一郎の積極的な資金投下と、当時の土木技術を結集して実現したのが、1929年に全線開通した東武日光線だ。栃木は、東京と日光を結ぶ鉄道の特急停車駅となり、再び交通の要衝としての地位を取り戻した。 家いちば見聞録【山梨編「根津嘉一郎」】 https://ieichiba.com/kenbunroku/665%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E6%A2%A8 現在は再生途上にある駅前のようす 今の栃木駅は高架化され、駅前も区画整理が進み、こざっぱりとした印象だ。広大な駐車場が目立つと思ったら、2000年にイトーヨーカドーが撤退した跡地だという。しかし、それからもうずいぶんと時間が経っている。しばらくは暫定的に外食チェーンの店舗が営業していたが、それらもちょうど撤退し、更地になったばかりのようだ。かつて駅前のシンボルだったイトーヨーカドーの撤退には、郊外の大型商業施設との競争があったという。駅周辺は、モータリゼーションによる商業の衰退を経験し、区画整理によって新しく生まれ変わろうとしている、その過程にある。 駅の目の前の一等地には、真新しい高層ホテルが建っていた。どこのチェーンホテルだろうと思って見たら、聞いたことのない「ホテルシャンブル」という名前だった。調べてみると、地元のホテル会社が経営しているらしい。その1階のレストラン周辺が賑やかだった。のぞいてみると、中でライブをやっていた。見たところ、アマチュアの中年バンドといった感じだ。しかし、ホテルの1階でこれだけ大きな音を出して演奏するのは、大手チェーンでは難しいかもしれない。隣には観光交流館「蔵なび」もあった。こうしたイベントも定期的に開かれているようだ。大手資本の撤退が続いたからこそ、これからは自分たちで街をつくっていこう。そんな雰囲気を感じた。 市役所移転で創意工夫 栃木市は、市役所も面白い。市役所のある場所に行ってみると、お馴染みの東武百貨店のロゴが掲げられた建物に出くわす。どう見てもデパートにしか見えない。しかし、よく見ると、小さめに「栃木市役所」の文字がある。実は、もともと「福田屋百貨店」だった建物で、2010年に閉店した。市内唯一の百貨店の閉店を受けて、市が建物を買い取り、市役所としてコンバージョン(用途変更)することを決めた。当時すでに築50年ほどになっていた旧庁舎を、約65億円かけて建て替える計画もあった。しかし、閉店した百貨店の建物を無償で譲り受け、改修すれば約21億円で済むという試算が出た。最終的には設計変更などで約29億円の工事費がかかったが、それでも新築する場合の半額以下に抑えられた。 さらに、ビルの1階には東武百貨店を誘致することに成功した。百貨店といっても、食料品を中心とした、いわゆる「デパ地下」のようなものだ。フードコートもあるから、庁舎内に職員向けの食堂を設ける必要もない。百貨店側からすれば、市役所を訪れる人たちもお客さんになる。双方にとって、一石二鳥というわけだ。以前、群馬県の沼田市でも、商業施設だった建物を市役所に転用した事例を紹介した。いずれも見事な創意工夫だと思う。 家いちば見聞録【沼田編「テラス沼田」】 https://ieichiba.com/kenbunroku/685%E6%B2%BC%E7%94%B0 大正時代の旧庁舎が文化の拠点に その初代の「旧栃木町役場庁舎」が、今も大正時代の姿を残して保存されている。1961年に鉄筋コンクリート造の2代目庁舎ができてからも、市役所別館として大切に使われてきた建物だ。それが改修、リノベーションされ、2022年に「栃木市立文学館」として生まれ変わった。周辺は、隣接する栃木市立美術館と一体となって、公園のようにきれいに整備されている。 文学館のエントランスは、打ち放しコンクリートのゲートのようになっていて、モダンな造りだ。ガラス張りのエレベーターもある。それが、大正時代のレトロな庁舎建築と見事に融合している。要するに、かなりお金をかけて整備されたことが分かる。 調べてみると、美術館の整備と合わせて、およそ35億円の事業予算が投じられたという。現在の百貨店跡に移転した市役所の改修工事費を上回る規模だ。すべてを市の財源で賄うわけではなく、国からの補助金なども活用したようだが、このような文化的施設に市が力を入れていることがうかがえる。 先ほど計算した、市役所を新築する場合と比べて圧縮できた工事費が約36億円だから、金額だけを見れば、それをほぼそのまま美術館建設と旧庁舎保存のために使ったようなものだ。たいてい、見栄を張って立派な市庁舎を建てることに躍起になっていたりはしないだろうか。栃木市の場合は、自らの執務スペースは既存ビルの再利用で十分として、それよりも市の歴史が刻み込まれた旧庁舎を後世に残す道を選んだのだ。これぞ、プライドというものだ。 栃木市の歴史に足跡を残した人たち その栃木市の“プライド”が、文学館の展示にも現れている。1階は、「とちぎサロン」としてテーブルが並び、ちょっとしたミニ図書館のようになっている。その周囲を囲むように、「市史に足跡を残した先人たち」と題したパネルがずらりと並んでいた。日本の腎移植の基礎を築いた世界的医学者「高安久雄」、民間最大規模の留学生支援奨学会をつくった国際奉仕者「古澤丈作」、社会福祉の父と呼ばれた「平岩幸吉」、日本の近代産業の発展に貢献した実業家「岩崎清七」など、とてもここには書ききれないほどだ。これほど多種多様な分野で、日本の歴史に名を残すような人物たちが、ひとつの街から次々と現れている。全国的に見ても、なかなか珍しいことではないだろうか。 日立製作所創業者“小平浪平”の先見と恩返し そして、特別に広いスペースで紹介されていたのが、「小平浪平」だ。日立製作所の創業者である。日立の創業者が茨城ではなく、ここ栃木市の出身だったとは意外だった。日立のルーツは、茨城県の「日立鉱山」にある。浪平はそこの工作課長として、外国製の電気機械の修理や、鉱山設備の建設などを担当するために招かれたのだ。そこで浪平は痛感した。外国製に頼らず、日本の技術で電気機械をつくらなければ、この国は発展しない。これからは電気の時代が来ると確信し、仲間たちとともに国産モーターの開発に取り組んだ。そして1910年、日立製作所を創業する。それが今日に至る日本の近代化の歴史へとつながっていった。 その縁もあってか、栃木市内には、日立グループでも有数の広大な敷地を誇る栃木工場がつくられた。1944年、戦争末期のことだった。その後、冷蔵庫やエアコンなどの生産拠点として発展し、市内に大きな雇用を生み出して、長年にわたり街の発展に貢献してきた。浪平からすれば、故郷に恩返しをしたいという想いもあったのではないだろうか。 ゆかりのある文学者たち 2階は文学館としてのメインとなっていて、栃木市にゆかりのある作家を紹介している。山本有三、吉屋信子、そして詩人の柴田トヨの3人を中心に、貴重な資料や写真などが分かりやすく展示されている。この3人のほかにも、多くの文人たちがこの街にゆかりがあるようで、「とちぎ文学ゆかりの地」の地図には、関連する史跡などの場所がたくさん記されている。 私はそれほど文学に通じていないため、正直、よく知らない名前ばかりだ。その中に「新海誠」の名前があった。これなら知っている。著名な文学者たちに交じって、現役のアニメーション監督の名前が並んでいることに、ちょっとした驚きがあった。「秒速5センチメートル」の作品名とともに、「岩舟駅」が紹介されていた。そうか、あのアニメの印象的なシーンが、栃木市だったのか。知らない栃木が、まだまだありそうな気がした。 家いちば見聞録【栃木後編】 (近日公開)
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